六文銭の由来

「六文銭」は俗称で本当は「六連銭」というそうです。特に真田一族の家紋として有名。

さて、この「六文銭」は地蔵信仰によるものです。 死後かならずおもむく六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)にて救済に現れる地蔵への賽銭として、棺に銭六文を入れ死者に持たせていました。 そこで戦場にて旗指物に「六文銭」を使用することにより、討死しても銭六文持って地蔵の救済を願おうという当時の武士の心境がうかがえます。

家紋の研究で有名な丹羽基二氏(奥様は真田家重臣を祖に持っている家系なんですって!)は、次の内容を書いています。
真田氏の本拠地信州は山岳地帯で、決して豊かな土地とはいえません。この環境で、農民達は多くの「間引き」をやむなく行いました。しかも時代は戦国、敵味方も多く死にました。そんな状況下、なにも出来ない真田氏はこの「六文銭」に死者への思いをこめました。これもまた、庶民達の間で人気の理由の一つなのでしょう。

江戸時代、太平の世の武家では銭を卑しめることを誇りとする気風があり、銭紋は下火になりました。しかし戦国時代、戦には何かとお金がかかります。ですからこの当時、銭は大切に扱われていましたので「六文銭」「永楽銭」「裏銭」といった銭紋が多く使われました。

蛇足…真田幸村の娘阿梅を後妻にした片倉重長は六文銭を替紋とし、それを誇りにしたと言われています。それ程「真田(幸村)=六文銭」は人々の間で定着していたのでしょう…。

別に六文銭は真田家の独占紋じゃないんですけどね…。

独占紋といえば柳生。次は柳生紋について。



柳生家紋

「吾亦紅に雀(柳生笹)」「丸に二引両」「二枚笠(柳生笠、二階笠)」「雪笹」といった紋を持っています。特に「吾亦紅に雀」は柳生家独占紋なのです。今回は「二枚笠」とあわせて二つの家紋を取り上げます。

■ 「吾亦紅に雀」

吾亦紅(われもこう)は秋の七草の一つ。楡の葉に似ている為、地楡とも書くので「地楡に雀」とも表記されます。「柳生新陰流」の家には少々似つかわしくない(失礼)風雅な定紋。
「竹に雀」と混同されて「柳生笹」の名の方が通ってしまったそうです。

「柳生新陰流 上巻」によると「我木香向雀 宗矩公放鷹時より是を以てすと云う」とあります。しかしはっきりとした由来については不明です。
丹羽氏が柳生の里にて武家屋敷の古老に由来を尋ねたところ、「吾亦紅は秋の名花で野末に長く、可憐な黒法子をつける。柳生の枯れやざるに比したもの」また対い雀については「竹に雀と同意で、瑞祥から来ている」といった内容の返答をもらったそうです。


■ 「二枚笠(柳生笠)」

「柳生新陰流 上巻」では「二枚笠 之坂崎家紋 元和二年拝領」。また「寛政重修諸家譜」には「二階笠はもと坂崎出羽守直盛が家紋なり。直盛生害ののちかの家の武器を宗矩に賜り、かつその紋をもって副紋とすべきむね仰せによるという」とあります。

割と有名な話なので、御存知の方も沢山いらっしゃると思います。上記の通り、「二枚笠」は坂崎出羽守直盛が宗矩に贈った紋です。
色々諸説ありますが、ここでは「千姫(家康の孫娘)の輿入れについてトラブル発生」としておきましょう…(アバウトすぎて御免なさい)。
この事件で謀反者になった直盛の元に、幕府は親交のあった宗矩を派遣して説得にあたらせます。その説得に感じ入った直盛は自害して果てます(他にも諸説あるそうです…)。

その際に次のような口伝が残っています。

宗矩「いずれ、戦国の世、拙者も近いうちにあの世でお会い申す」
直盛「お待ち致す。ついては記念に二枚の笠を紋にされたい。一枚は「結び笠」で、余はこの手結んであの世に旅立つ。貴殿は、「解き笠」でひもを解き、しばしこの世に逗留されたし」
と言うやいなや、千手院の銘刀を腹にさした。


なお、「二枚笠」には「人生は旅である」の意をもっています。

ここで謝罪。
自分、一コインで宗矩に会えないのでι確認怠りました。
ゲームでは「二枚笠」を使用していたのですね…。スミマセン、間違えました。
いくら「慶兆」でも時代的にずれてるし、なんといっても「あの」宗矩がそんな説得できるわけがない!(失礼)。そう勝手に解釈して「吾亦紅に雀」をバナーに使用いたしました。
気が付かれた方、そんな訳 だったんですよ(^^::: そして今回、「二枚笠」に差し換えました。せっかくなので「吾亦紅に雀」はこちらに展示しますね。

「吾亦紅に雀」

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2001年4月20日UP